

水道水で洗うだけでは、バイオフィルムの9割は除去できません。
傷口がじくじくしてかゆい、なかなか治らない——そんな経験はないでしょうか。この「しつこいかゆみ」の正体が、実はバイオフィルムと深く関係していることが、近年の研究で明らかになってきました。
バイオフィルムとは、細菌が自ら分泌した多糖類(ポリサッカライド)でできた「バリア膜」に包まれた状態のことです。身近な例で言えば、歯の表面につく歯垢(プラーク)がまさにバイオフィルムです。創傷部位にバイオフィルムが形成されると、免疫細胞が「細菌を倒そう」と炎症反応を続け、これが傷周囲の持続的なかゆみや発赤を引き起こします。つまり、かゆみが長引く原因の一端は、このバイオフィルムが起こす慢性炎症にあるのです。
開放創では、受傷後わずか24時間以内に細菌が住みつき始め、その後48〜72時間でバイオフィルムが成熟すると報告されています(Wound hygiene コンセンサスドキュメント, 2020年)。成熟したバイオフィルムは、いわゆる「バリアの要塞」のような構造を持ちます。この要塞の中では抗生剤も免疫細胞も届きにくいため、細菌の増殖を抑えることが非常に難しくなります。
慢性的・難治性の創傷では、なんと約90%のケースでバイオフィルムの関与があるとされています。「傷が治りにくい、ずっとかゆい」という状態はまさにこのことです。つまりバイオフィルムの除去が、かゆみ解消の要です。
バイオフィルムを放置すると、クリティカルコロナイゼーション(臨界的定着)と呼ばれる状態に至ることがあります。これは、創傷部位で菌が増殖することにより、傷がなかなか治らなくなる状態のことです。発生から1か月以上経過した難治性創傷の6〜9割がこの状態に至っているとも言われています。かゆみが「ちょっとした傷のせい」と侮れない理由が、ここにあります。
参考:高岡駅南クリニック「第20回 バイオフィルムを考える」(バイオフィルム形成の仕組みと創傷管理の原則について詳しく解説)
「傷口を水道水でしっかり洗えば大丈夫」と思っている方は多いでしょう。しかし、それだけでは不十分です。
生理食塩水や微温湯のみを用いた流水洗浄では、創面に付着したバイオフィルムや、創面をコーティングするように存在するタンパク質成分の異物を「除去できない」ことが、国際的なコンセンサスドキュメント(Wound hygiene, 2020)で明確に指摘されています。水でただ「流すだけ」では、バイオフィルムのバリアを破壊する力が足りないのです。
バイオフィルムを除去するには、物理的な力と適切な洗浄剤の組み合わせが必要です。歯の歯垢を「うがいだけ」で取り除けないのと同じ原理です。歯垢を除去するには歯ブラシで物理的にこする必要がありますが、創傷のバイオフィルムも同様に、「物理的に擦って取り除く」行為が有効な方法の一つとされています。
特に重要なのが、界面活性剤を含む創洗浄剤の使用です。界面活性剤は、バイオフィルムに浸透・阻害・洗浄・除去作用を発揮します。プロントザン®(ビー・ブラウンエースクラップ)などの創傷洗浄専用ソリューションは、この界面活性剤(ベタイン)と抗菌成分(PHMB)を配合しており、バイオフィルムに直接作用します。これが使えそうです。
また、洗浄の「範囲」と「時間」にも注意が必要です。創傷部分だけを短時間こするだけでは不十分で、創辺縁から少なくとも10〜20cmの範囲を、20秒以上かけて愛護的に洗浄することが推奨されています。創周囲の皮膚にも細菌が付着しており、そこが感染源になることがあるからです。
水道水で洗うだけ、というのが原則ではありません。
参考:ディアケア「Wound hygiene(ウンドハイジーン)新しい創傷管理」(流水洗浄だけでは不十分な理由とWound Hygieneの4ステップを解説)
バイオフィルムを除去し、かゆみの連鎖を断つための正しい創洗浄方法として、近年「Wound Hygiene(創傷衛生)」という新しい考え方が注目されています。2020年に国際創傷管理の専門誌『International Wound Journal』に掲載されたコンセンサスドキュメントで広く知られるようになりました。
このWound Hygieneは、以下の4ステップで構成されています。
| ステップ | 内容 | ポイント |
|:---:|:---:|:---:|
| ① Cleanse(洗浄) | 界面活性剤入り洗浄剤で創底・周囲を洗浄 | 流すだけでなく「こする・浸す」 |
| ② Debride(デブリードマン) | 壊死組織・バイオフィルムを物理的に除去 | 点状出血が出るまで除去が目安 |
| ③ Refashion(創縁の新鮮化) | 創縁をこすって老化細胞・厚くなった組織を除去 | 健康な組織が伸びやすくなる |
| ④ Dress(被覆) | 抗バイオフィルム性の創傷被覆材で覆う | 再形成を防ぐ効果がある |
最も注目すべきはステップ①の洗浄です。泡立てた弱酸性の洗浄剤、または専用創傷洗浄剤を使い、創辺縁から10〜20cmの皮膚も含めて20秒以上丁寧に洗浄することが基本です。
ステップ②のデブリードマンは専門家が行う処置ですが、自宅ケアの範囲でも創面のぬめり(バイオフィルムのサイン)を口腔ケア用スポンジなどで優しくこすって取り除く行為は有効とされています。ただし、出血が止まらない・強い痛みがある場合はすぐに医師に相談することが大切です。
ステップ④の被覆では、銀含有ドレッシング材やベタイン界面活性剤含有洗浄ソリューションなどの抗バイオフィルム性製材を選ぶと、除去後のバイオフィルム再形成を大幅に抑えられます。バイオフィルムは除去後も急速に再形成しようとするため、適切な被覆材での「維持管理」がかゆみを抑え続けるうえでの条件です。
参考:白十字会「創傷管理の新しい観念『Wound Hygiene』」(Wound Hygieneの4ステップと慢性創傷の90%がバイオフィルム関与であることを解説するPDF)
「抗生剤を使っているのに傷のかゆみが治まらない」という状況は珍しくありません。これはバイオフィルムの構造的な特性に起因しています。
バイオフィルム内の細菌は、ポリサッカライドの外壁(バリア)に守られており、抗生剤の成分がこのバリアを突破して内部の細菌に届くのが非常に困難です。バイオフィルム非形成の状態と比較すると、バイオフィルム状態の細菌に抗生剤が有効に作用するには1,000倍以上の濃度が必要という報告もあります。抗生剤を飲み続けても傷のぬめりがとれないのは、まさにこのバリアのせいです。
しかも、バイオフィルム内の細菌は「仮死状態」に近い状態で生き延びています。仮死状態の細菌は代謝活動が停止に近く、抗生剤の標的となる細胞分裂などのプロセスが動いていないため、薬が効きにくいのです。免疫細胞もバリアに阻まれ、中の細菌を直接攻撃できません。
さらに、バイオフィルム内では耐性菌が生まれやすい環境でもあります。不完全な抗生剤の曝露を繰り返すことで、細菌はより強い薬剤耐性を獲得していく可能性があります。これは、かゆみだけでなく、将来的な感染症リスクにも直結する問題です。
つまり抗生剤だけに頼るのは限界があります。
根本的な解決策は、バイオフィルムを「物理的に壊す」ことと「適切な洗浄剤で除去する」ことです。消毒薬を多用しても、蛋白質と触れると活性を失う性質があるため、創面全体に有効に作用しにくいという問題もあります。消毒よりも丁寧な創洗浄の方が、細菌増殖の抑制において効果的という考え方は、近年の創傷医療では標準的な認識になりつつあります。
参考:IWII「WOUND INFECTION IN CLINICAL PRACTICE(2022年日本語版)」(バイオフィルムと薬剤耐性・難治性創傷に関する国際的エビデンスをまとめたPDF)
正しい創洗浄でバイオフィルムを除去した後、多くの方が見落としがちなのが「洗浄後の保湿ケア」です。これが、かゆみを再び引き起こさないための最終防衛線となります。
洗浄を毎日繰り返すと、特に高齢者や乾燥肌の方では皮膚のバリア(角質層)が傷つきやすくなります。皮膚のバリアが壊れた状態では、ブドウ球菌などの菌が再び増殖しやすく、かゆみの悪循環に逆戻りしてしまいます。これは健康な皮膚にとっても同じで、荒れた皮膚はヒスタミンが分泌されやすくなり、かゆみ感覚を強める原因になります。
自宅で実践できる創洗浄後のかゆみ対策として、以下のポイントを押さえてください。
- 🧴 洗浄剤は弱酸性の泡タイプを選ぶ(皮膚のpHに近く、ダメージが少ない)
- 💦 洗浄は微温湯(37〜38℃) を使う(熱すぎる湯はかゆみを悪化させる)
- 🖐 こするより「包み込むように」 洗う(創周囲の皮膚はこすらない)
- 🌿 洗浄後は保湿剤(ヒルドイドソフト®やワセリン) を薄く塗布する
特に注目したいのが、洗浄後の「保湿」の役割です。ヒルドイドソフト®(ヘパリン類似物質含有)などで創周囲の皮膚を保湿することで、皮膚バリアを回復・維持し、菌の再侵入を防ぎます。かゆみを感じてかいてしまうと、皮膚が傷つき菌が入りやすくなる→バイオフィルムが再形成される→かゆみが続く、という悪循環が生まれます。洗浄と保湿はセットです。
傷口のぬめりが気になる場合は、歯磨き用の柔らかいスポンジや口腔ケアスポンジで優しくこすってぬめりを除去してから洗い流す方法も有効です。ただし、出血が見られたり痛みが強い場合は、自己処置を中断して皮膚科・形成外科に相談することをおすすめします。なかなか治らないかゆみは、専門家に診てもらうことで早期解決につながることも多いです。
| ❌ やりがちなNG | ✅ 正しいケア |
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| 水道水を「さっとかける」だけ | 弱酸性泡洗浄剤+微温湯で20秒以上 |
| 創部だけを洗う | 周囲10〜20cmも含めて洗浄 |
| 抗生剤軟膏を毎回変える | 耐性菌リスクの低いヨード系や銀系を選ぶ |
| 洗浄後に保湿しない | ヒルドイドソフト®等で保湿してバリアを守る |
| 強い消毒薬を毎日使う | 消毒より洗浄を優先する |
洗浄と保湿のセットがかゆみ対策の基本です。
バイオフィルムによるかゆみは、一度適切に除去しても、ケアをやめると再形成されてしまいます。継続的な正しい創洗浄と、皮膚バリアを守る保湿ケアを習慣にすることで、かゆみの悪循環から確実に抜け出すことができます。今日のケアの積み重ねが、傷の治癒を大きく左右します。
参考:皮膚科専門医「褥瘡の処置方法② 実は間違いだらけの創部洗浄法」(洗浄剤の選び方・洗浄範囲・バイオフィルムへの対処まで実践的に解説)