

犬に外用の虫除け剤を一切使っていないと、リーシュマニア症で愛犬が腎不全を起こすリスクが最大80%に達することがあります。
リーシュマニア症は、リーシュマニア(Leishmania)属の原虫が引き起こす寄生虫感染症です。原虫とは、単細胞ながら他の動物に寄生して病気を引き起こす生物のことで、マラリアの病原体と同じグループに属します。この原虫は、感染したサシチョウバエ(英語ではsand flyとも呼ばれる)という昆虫が犬や人の血を吸うことで体内に侵入します。
サシチョウバエの大きさは、一般的な蚊のおよそ3分の1ほどしかありません。体長にすると約1.5〜3mm程度、ちょうど大きな砂粒ひとつくらいのサイズ感です。羽音もほとんど立てないため、刺されたことにすら気づきにくいという厄介な特性があります。
現在、世界では約1,200万人がリーシュマニア症に感染していると推定され、毎年90〜130万人が新たに感染しているとWHOは報告しています。年間では2〜3万人が死亡するとされる、れっきとした人獣共通感染症です。
リーシュマニア原虫には大きく分けて2つの形態があります。鞭毛を持たない「アマスチゴート」と、長い鞭毛を持つ「プロマスチゴート」です。サシチョウバエが犬や人を刺すとき、プロマスチゴートの形態で体内に入り込み、その後アマスチゴートへと変化してマクロファージ(免疫細胞)の中で増殖を続けます。免疫細胞の中に潜み込むという性質が、この病気を治療の難しい慢性疾患にしている理由のひとつです。
つまり、原虫が免疫細胞を利用して増殖するということです。この仕組みを理解することで、なぜリーシュマニア症が体内から完全に駆逐しにくいのかがわかります。
エーザイ:顧みられない熱帯病「リーシュマニア症」の感染原因・症状・治療法について(慶應義塾大学名誉教授監修)
犬のリーシュマニア症の症状は非常に多彩です。これが診断を難しくする最大の理由でもあります。東京大学の松本芳嗣教授らの報告によると、犬の場合は人と異なり「皮膚型」「内臓型」という明確な区別がなく、進行するとすべての原虫種で全身感染を来すことが特徴です。
皮膚症状としては、目や耳のまわりを中心とした脱毛が最も目につきやすいサインです。一見するとアレルギー性皮膚炎に見えることも多く、「単なる皮膚炎だろう」と見過ごされてしまうケースが後を絶ちません。その他にも、全身に分厚いフケが現れたり、両肘・両踵の皮膚が著しく肥厚して汚い分泌物が出たりすることがあります。爪がもろくなって異常に伸びる爪甲鉤弯症(そうこうこうわんしょう)も、犬のリーシュマニア症に特有の症状のひとつです。
内臓症状としては以下のようなものが報告されています。
- 🔻 食欲減退・体重減少:元々8kgあった犬が7kgに落ちるなど、著しい体重低下が起きることがある
- 🔻 貧血:血液検査で顕著な貧血が確認される
- 🔻 リンパ節の腫大:全身のリンパ節が腫れ上がる
- 🔻 腎不全・肝不全:血液検査で腎機能・肝機能の異常が出る
- 🔻 鼻出血:突然鼻から血が出ることがある
- 🔻 眼症状:ブドウ膜炎や緑内障を発症することもある
特に怖いのは、これらの症状が単独ではなく複数同時に現れる点です。皮膚の異変と体重減少と腎機能低下が一度に進行することもあります。治療を施さなければ致死的な経過をたどることも珍しくなく、重症化した場合は「ブラックフィーバー」とも呼ばれます。
一方で、常在地域では感染していても50〜80%の犬が無症状のまま経過するという報告もあります。これは読者にとって意外な事実かもしれません。無症状でも保虫宿主として機能するため、症状がないからといって安心できないということです。
症状が出るまでの潜伏期間は1ヶ月から数年と非常に幅広く、海外から帰国してから時間が経った後に発症するケースもあります。これが診断をさらに難しくしている要因です。
日本獣医師会学術誌:東京大学松本芳嗣教授らによる「犬のリーシュマニア症」臨床解説(症状・診断・治療・公衆衛生)
リーシュマニア症が恐ろしいのは、「犬だけの病気」で終わらない点にあります。インド亜大陸を除く世界の人リーシュマニア症常在地域の多くで、犬が主要な保虫宿主(reservoir)と考えられています。つまり、感染した犬が原虫を持ち続けることで、その地域のサシチョウバエがさらに多くの原虫を保有し、人への感染サイクルが維持されてしまうのです。
直接的な犬から人への感染(例えば噛まれたり引っかかれたりすること)は基本的には起こりません。ただし、皮膚の分泌物(滲出物)を介した感染の可能性については一部の文献で指摘されており、感染犬の傷の処置には注意が必要です。
また、サシチョウバエがいない日本国内では周囲への伝染リスクは現時点で非常に低いとされています。しかし、地球温暖化によって日本が亜熱帯化すれば、サシチョウバエが定着するリスクがゼロとは言い切れません。これが「今のうちに正しい知識を持つこと」が大切な理由のひとつです。
感染経路を整理すると、主に以下の3つになります。
- 🦟 サシチョウバエによる媒介:最も一般的な経路。感染した雌のサシチョウバエが吸血する際に原虫が移行する
- 💉 輸血・注射針の共用:感染動物・感染者の血液を介した感染。輸血医療での二次感染リスクも存在する
- 🤰 母子感染:リーシュマニア症に感染した母親・母犬から生まれた子どもが、生まれつき感染していることがある
特に輸血による感染は、無症状のキャリア犬からの献血リスクとして獣医学領域でも問題視されています。症状が出ていなくても感染している犬が血液提供者になると、受血した犬に感染が広がる可能性があるためです。これは多くの飼い主が見落としがちな感染リスクです。
厚生労働省検疫所FORTH:リーシュマニア症の感染経路・症状・予防策(渡航者向け公式情報)
犬のリーシュマニア症の診断は、臨床症状だけでは非常に困難です。脱毛や体重減少はアレルギーや他の皮膚病とも重なるため、「アレルギーかもしれない」「加齢のせいかもしれない」と誤解されやすいのが現実です。実際、日本でも複数の動物病院を転々としてから最終的にリーシュマニア症と判明したケースが報告されています。
確定診断には以下の検査方法が組み合わせて用いられます。
| 検査方法 | 内容 |
|--------|------|
| 血液検査 | 抗体検出・貧血・腎肝機能の評価 |
| PCR検査 | 寄生虫DNAの直接確認(高精度) |
| 組織検査 | リンパ節・骨髄から採取して原虫の有無を確認 |
| 免疫クロマトグラフィー | 簡便な抗体スクリーニング |
問診での「渡航歴の確認」が診断の鍵になります。京都府の動物病院では、4年前にイタリアに在住していた11歳のワンちゃんが、複数の病院で原因不明とされ続けた末にリーシュマニア症と診断されたという症例が報告されています。渡航歴を詳細に確認することが先決です。
治療については、現在のところ体内から原虫を完全に駆逐することは難しく、「症状をコントロールしながら長期管理する」という方針が基本です。主な治療薬は以下のとおりです。
- 💊 アロプリノール:経口投与が可能な長期使用薬。痛風治療薬として知られるが、リーシュマニア原虫の増殖を抑える効果がある
- 💉 メグルミン アンチモネイト(グルカンチーム):注射薬。5価アンチモン製剤の一種で古くから使われているが、副作用が出ることもある
- 💊 ミルテフォシン:経口投与の選択肢。特定の症例に有効とされる
- 🏥 支持療法:点滴・栄養管理・二次感染の治療・腎臓サポートなど
治療に対する反応は良好なケースも多く、投薬開始から1〜2ヶ月で全身症状が著しく改善した症例も報告されています。腎機能の数値やリンパ節の腫大が正常化した例もあります。これは励みになりますね。ただし、継続的なモニタリングと長期的な投薬管理が必須であることは覚えておく必要があります。
一点、日本特有の問題として、国内での認可薬が限られていることが挙げられます。日本では流行がないため治療薬が揃っておらず、個人輸入や厚生省の保管薬剤を使う形になることもあります。そのため、経験豊富な獣医師に診てもらうことが特に重要です。
京都ゆう動物病院(皮膚科認定医):実際の輸入犬リーシュマニア症の症例報告。診断から治療経過まで詳細に記録されています
リーシュマニア症の予防において最も重要な戦略は、サシチョウバエに刺されないようにすることです。現在のところ、犬のリーシュマニア症に対して日本国内で広く利用できるワクチンは存在しておらず(ブラジルなど特定の国では認可されているワクチンが存在する)、薬による事前予防も確立されていないため、媒介昆虫への対策が最優先となります。
サシチョウバエの行動特性を知ることが対策の第一歩です。サシチョウバエは夕暮れから明け方にかけて活動が活発化します。日中よりも夜間に屋外で過ごすほうがリスクが高いという点は、蚊と共通しています。ただし蚊の3分の1程度のサイズしかないため、一般的な蚊帳を通り抜けてしまいます。殺虫剤を練り込んだ蚊帳や、目の細かいネットの使用が推奨されるのはこのためです。
欧州での主流な予防策は、フィプロニルなどの殺虫成分を含む外用虫除け剤を犬に使用することです。論文では「ノミとり首輪(脂溶性デルタメスリンなど)の使用でサシチョウバエの吸血を防ぎ、大きな予防効果が得られた」という報告があります。これは使えそうです。流行地域への渡航を予定している場合は、動物病院で処方される外用虫除け剤を事前に入手しておくことが有効な対策のひとつになります。
予防のポイントを整理します。
- 🌙 夕暮れ〜明け方は屋内に:サシチョウバエの活動ピーク時間帯は屋内で過ごす
- 🪟 目の細かい網戸・蚊帳の使用:通常の蚊帳はすり抜けられるため、殺虫剤処理済みのものを選ぶ
- 🐕 外用虫除け剤の使用:獣医師に相談して殺虫成分含有の首輪や外用薬を活用する
- 🩺 渡航前後の健康診断:地中海沿岸・ブラジル・中南米などの流行地域に滞在した犬は帰国後も定期的に検査を受ける
- 📋 渡航歴の記録と共有:症状が出た際、渡航歴をすぐに獣医師に伝えられるよう記録しておく
日本国内での感染リスクは現状では低いですが、海外からの犬の輸入が増加している近年、流行地域への旅行や現地での長期滞在には十分な注意が必要です。「日本にいるから大丈夫」という思い込みは禁物です。
また、環境変化による感染症地図の変化も見逃せません。ベーリンガーインゲルハイムのレポートによると、西欧・北欧ではこれまでほとんど見られなかったリーシュマニア症が近年確認されるようになっており、感染リスクのある地域が従来よりも広がりつつあります。
感染が疑われる症状——具体的には、海外渡航歴のある犬の皮膚の脱毛・フケ・爪の異常・体重減少・リンパ節腫大などが同時に見られる場合——は、早めにかかりつけの動物病院に相談することが基本です。
ベーリンガーインゲルハイム:ペットの寄生虫を取り巻く環境の世界的変化。リーシュマニア症の感染地域拡大についての情報を含みます